今ほしいものはありますか?と聞かれても、特にない。
もしほしいものはなんでもタダであげますよ!と言われても、特に思いつかない。
生活に必要なものはだいたい揃っているし、日々の暮らしに不自由もしていない。
丁寧な暮らしを心がけているつもりもなく、はたまたミニマリストという意義を持って生きているわけでもない。ただ単純にほしいものが思いつかないのだ。
物欲がないことは不幸なことなのだろうか?と自問自答するも、難しいことはよくわからない。ただ、モノがあるから幸せだ、モノがないから不幸せだとは、一概には言えないんじゃないかとは思う。
そんなふうに思うようになったのはいつからだろう。サラリーマンを辞めてから?日本を出てから?
どこかのタイミングでガラッと思考が変わったなんて記憶はないから、きっとちょっとずつちょっとずつ、わたしの中で何かが変化していったのかもしれない。
わたしの物を買うことへの考え方について、過去から今に至るまでを少し掘り下げてみようかなと思う。
消費して浪費する生活【物を買うことと忙しさの関係】
会社員として働いていた全盛期、もらえる給料が増えるごとに出ていくお金も増えていった。
毎日のランチは1,000円越え。
朝は職場に着く前にカフェに寄り、仕事モードをつくるためにブラックコーヒーでカフェインを投入し、1日のスケジュールをチェックする。そして仕事中も休憩時間と称してまたカフェに寄る。
かっこよくておしゃれな服を見つければ、仕事着にピッタリだと即購入。「そういえば今のパンプスはヒールがすり減ってきたな」と思えば新しい靴も追加。
ジムに通い、ネイルやアイブロウ、アイラッシュ、髪のお手入れも欠かさない。
後輩には気前よくおごり、旅先では職場やクライアントへのお土産も忘れない。
高層ビルが立ち並ぶオフィスへの出勤。社員カードを首から下げ、高いヒールをカツカツ鳴らしながらノートPC小脇に抱え、忙しそうに歩く。IT企業で働くかっこいいできる女に酔っていた頃といってもいい。(実際にそうであったか否かは別として)
あるとき、さすがにこれは毎日お金を使いすぎているかもしれないと思い出した頃、当時「節約術」「より賢く生きるためのお金の使い方」という記事が流行っているということを耳にし、そこから得た情報で週に一度はNMD(No Money Day)とやらをつくろう!と計画してみた。
「ノーマネーデー」は、英語のNo Money Dayの頭文字をとって「NMD」ともいわれています。2018年頃から注目が高まり、コロナ禍における将来への不安から再びこの節約法が注目され、SNSや雑誌などでも話題となっています。
自分で決めたルールだからそれを守らないことも簡単なわけで、NMDとやらを決めたものの、やっぱり大きく何かが変わったわけではなかった。
仕事が増え、責任が大きくなるごとに自分で自由に使えるお金も増え始めた。
自分の時間を売って、それで得たお金を使ってモノをゲットする。物やサービスを得ることに快感を覚えていたあの頃は、どれだけ時間を消費してもそのかわりにたくさんのお金をもらえればいいと思っていたわたし。
今思うとかなりバカなことをしていたなぁ。
浪費家のパートナー【モラハラ浪費癖のある夫】
お金の使い方によって付き合う相手が変わるのか、付き合う相手によってお金の使い方が変わるのか。
どちらなのだろう?
かつて一緒にいた相手が、それはそれは多趣味の人だった。
車、洋服、家具、家電、山登りにキャンプといったアウトドア、夏はサーフィン冬はスキー、外食巡りに旅、推し活、などなど。細かく書くとキリがないので、ここでは割愛する。
この世のすべての物を手に入れ、すべての娯楽を経験しないと死んでしまうかのごとく、毎日何かしらにお金を使っては趣味に没頭していた。よくもまぁここまで手を広げられるなと思ったものだ。
もちろんどれも工夫すればお金をかけずに楽しめる方法もあると思うから、趣味自体を否定しているわけではない。
しかし、そこに多額の費用を投じる場合はどうだろうか?
「安物買いの銭失いになりたくない」「安いものを買うのは貧乏くさい」「やるからには高くて良いモノを揃える」「これが流行りだから」などと力説し、お前も一緒にやろう!買おう!と説得してくる。
しかもこれが家計を共にする相手だったのだ。
あの頃のわたしがもっと賢く、NOと言える勇気があれば、無駄なお金を使って危険な経験をすることもなかったであろう。
相手に合わしてしまい、自分が好きで本当にやりたいことなのか、ほしいものなのかも考える前にお財布を開いていた。
バカな自分自身に対する高い勉強代を払ったと思っている。
ちなみに今、あの頃惰性や付き合いで買ったものは、何ひとつ手元に残っていない。すべて人にあげたかフリマアプリで処分した。
「体験はモノと違って自分の経験や想い出として残るじゃないですか」と言う人もいるかもしれないが、一緒に体験した人が最悪だったため人生の経験値だけは頂戴し、思い出としてはわたしの中から抹消している。
時間はなくてもお金と物はある暮らし
仕事に行って、家に帰って家事をして、また仕事をして、本当に必要かわからないモノを買って好きかわからない趣味にはげみ、さらに仕事をして、忙しくても充実していると思い込む。
たいていの欲しいものは買えたし、行きたいところにも行けた。と、思っていた。信じられないかもしれないが、本気でそう思っていたのだ。
おしゃれで人気のカフェにも気軽に行けたし、隠れた名店なんていう値段の書いていないお店にも気兼ねなく行けた。新しい服や靴だってどんどん買えたし、土日に働いた分の有給を工夫すれば、連休を取って旅行にだって行けたんだもの。
「あ〜お金があってほしいものが手に入る暮らしって幸せだな。」
そう思っていたわたしは、本当に幸せだったのだろうか。
自分の本当に好きなものや好きなことはいまいちよくわからないまま、どんどん高くなる生活レベルに対する説明できない正体不明の焦りを見ないふりし、心からの幸せを感じることはなかった気がする。
深く考えないようにしていたのかもしれないし、深く考えることができなかったのかもしれない。
いつもあくせく動いていて、何かを買ったり今以上の快適さ、優雅さを得るために仕事をしてお金を稼ぐという、まるで目の前にぶら下げられた人参を追いかける馬のごとく、目の前にぶら下げられたお金を追いかけてゴールの見えないレースを走っている毎日だったんじゃないだろうか。
何をするにも効率を求めてせかせかと動く。効率よく立ち回れないことにイライラする。
時間を切り売りしながら、そんなに急いで何をしたかったんだろうね。
ほぼNO MONEY DAYの暮らし【お金を使わない日々】
さて、今のわたしの生活はというと、驚くほどにお金を使わない。
昔は意識的にお金を使わない日をつくろうと思ってもなかなか実現しなかったあのNMDが、今ではほぼ毎日だ。
誤解のないようにいうと、もちろん居住費や食費、日用品の購入など、生活に欠かせないものは支払っている。ここでいうNMDとは、生活に必須とならないモノに対する消費をしない日、を指している。
まず、今ではほとんど外食をしない。滅多にカフェにもいかない。
もちろんわたしが住んでいる地域にも、少し歩けばレストランはあるし、おしゃれなカフェだってある。ただ正直そこまでおいしくないし、値段も高い。
日本みたいに300円で栄養バランスも取れて味もおいしいお弁当なんてゲットできる国ではない。カフェで飲むドリンクも「まぁこんなもんか」という感じだ。
自分で作るご飯のほうがおいしいと感じるし、家で淹れるコーヒーのほうがおいしいのだ。
買い出しは週に一回ほど。
時間はあるから、【この一週間でいかに食材を無駄なく使っておいしい料理が作れるか】なんて企画もできてしまう。前はそこまで料理が好きじゃなかったわたしも、今では自家製パンやら手作りウスターソースなんかもお手のものだ。
次に身の回りのこと。
ネイルやアイラッシュなんかは脱サラした頃にはやめてたし、クライアント訪問で着回す仕事着も必要ないから新しい服もいらない。会社のドレスコードを守るために新しい服を買っていたなんて、今思うと笑えてくる。
この国にきてから買った服はたったの一着。あとは全部昔から着ているもので事足りている。
趣味というと、思いつくものはこんな感じ。
- 家でおいしい料理をつくったり新作スイーツづくりにトライする
- 家の中の細かい部分まで掃除してキレイにする
- Kindle Unlimitedで日本語の本を読む
- 動画を見たりお気に入りのゲームをプレイする
- 散歩をして旧市街の街並みを楽しむ
- 手作りコーヒーとサンドイッチを持って公園でピクニックをする
- 家族や友人が集まって家でおしゃべりとスナックを楽しむ
どれも手頃に楽しめるものばかりだ。
もっともお金を使うものといえば、日本への交通費くらいだろうか。
お金と物と時間と幸せ
お金の心配をしなくていいことが、精神的にどれだけ負担がないかということはよく知っている。それなりに経済的な大変さも経験しているからこそ、お金の大切さもある程度理解はしているつもりだ。
この世の中で、最低限のお金というのはどうしても必要だと思う。
では、物はどうだろうか?
ほしいと思ったものはなんでも手に入り、好きなだけ物を買えることが幸せなのかというと、わたしはそうは思わない。
あの頃の物にあふれた生活をしていたわたしと、ほとんど物を欲さない今のわたしとでは、圧倒的に今のほうがストレスも少なく、焦りや切迫感に襲われることもない穏やかな幸せを感じる。
今あるものだけで満足し、今あることに感謝し、ゆっくりとした時間の中で生きられること、それがわたしにとっての幸せなんだなとわかったのだ。
「お金を使わないって素晴らしいことなんだ」
「物を買わない暮らしが最高」
「時間さえあれば何もいらない」
などと、他者に力説したい気持ちもない。
これは、
大切な時間を消費してまで動き回り物を買って消費することに疑問を持ちはじめた
という、わたしの中での変化に過ぎない。
この気持ちに賛同してくれる人がいなくても、それとは関係ないところできっとわたしはこの生活を続けると思う。
ゆっくりとそんなことを考えられるようになったことも、わたしにとってはささやかな幸せだ。
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