今日は一段と冷える。
スマホの天気アプリを見ると、外の気温はマイナス6度。
「うぅ〜さむいさむい」と言いながら、もこもこの靴下を履き、厚手のカーディガンを羽織る。
寒い日のために取っておいたお気に入りの紅茶を淹れつつ、こんな日はふと昔のできごとを思い出すことに気がつきました。
あれは私が泥沼の中で必死にもがいていた頃。
なんとかともに人生を歩むと決めた彼とうまくやれる道はないかと暗中模索していた昔のこと。その後モラハラDV夫へと変わっていく当時の彼とのできごとです。
今回はそんな体験談をもとに、泥沼から抜け出したわたしが見つけた人生の教訓を書いてみたいなと思います。
相手基準で物事を考えると自分を見失う【自分の意見】
さかのぼることxx年前。とある冬の日。
外は雪降る寒さの中、まだ日が登る前の薄暗い空を見ながら、忙しなく車に荷物を詰め込む。
以前から二人で遠出をすると決めていた日。向かう場所は他県の山。
山登りが趣味だった相手に合わせて、この日のために言われるがまま登山道具一式を揃えたわたし。
登山靴に始まり、レイヤーを意識した登山ウェア、グローブや帽子、ザック、非常用グッズ、ガスバーナーやその他諸々。
え、こんなに高いの!?という数々の登山グッズに尻込みはしたものの、「山登りには絶対必要」と言われれば買うしかないのかなと思ってしまう。
「これって結構高いんだね」と、数万円する登山靴を手に取りつつ彼に聞いてみるも、「は?もっと高くて機能性のいいやつもあるんだから、これくらい安いだろ。」という返答。
この時点でわたしは2つの間違いをおかしていることにお気づきだろうか?
その一。
「山登りには絶対必要」とは言われたものの、それらは本当に必要なものなのか。
自分でしっかりと調べていれば、もしかしたら中には不要なもの、もしくは安いもので代替できるようなものもあったはず。
少なくとも無理に高いものばかり買わなくて済んだはずだ。
「俺はお前よりも登山の経験値あるんだぜ」という相手の高飛車な態度による変な自信に圧倒され、まんまと「彼の言っていることは正しいんだ」と思い込んでしまった。
その二。
高いっていくらからを高いと言うの?
当時のわたしにとって、数万円もする登山靴はかなりお高い代物だった。ポッと口から出た「これって結構高いんだね」はわたしの本音だ。
それにもかかわらず、自分の感覚値に嘘をついて相手に合わせてしまった。
「いや〜わたしにとっては高いから別の靴にするわ」と自分の意見を表明し、他も見れば良かっただけ。
もちろん数万も出さずとも手頃で使える登山靴はたくさんある。
日頃のこういうちょっとした意見も伝えず、常に相手の価値観が基準になってしまうと、だんだんと自分を見失ってしまいます。
「わかってほしい」気持ちが自分を苦しめる【諦め】
相手の意見に流されまくり、見事「プロも愛用!」の登山グッズ一式を買い揃えたわたし。
話は山へ向かう車中に戻ります。
夜中の出発ということもあり、その日はかなり冷え込みました。
助手席に乗っているわたしは膝上にブランケットをかけるも、やはりまだ寒い。
「ちょっと寒いから、ヒーターつけていい?」と聞いたとき、相手からは次のような言葉が返ってきました。
え?俺は寒くない。
えーっと、あなたは寒くないかもしれないけど、わたしは寒いんです。だからヒーターをつけてもいいかと伺ったんですけど。。
おそらくこれはあるあるの展開かなと思います。
「暑いね」「俺は暑くない」
「おいしいね」「いや、まずいだろ」
いやはや、彼らは先にも述べた自分の意見を表明するということがしっかりと身についているのでしょうね!
がしかし、こんなやりとりが続いては楽しいはずがありません。
こういった自分の意見ばかり表明しすぎる人間と長時間一緒にいると、相手から常に否定されているような感覚を覚えます。
と同時に、なんでわかってくれないんだろうと思ってしまうんですよね。わたし自身がそうでした。
結論からお伝えすると、こういう自分の意見ばかりしっかりと表明する系の人間に対しては、わかってもらおうなんて思わないこと。
こう言ってしまっては元の子もないですが、残念ながら諦めるしかありません。
わかってほしい病を患ってしまうと自分が苦しくなるだけなんです。
個人的な意見ですが、モラハラDVパートナーだけではなく、親や子供、友人や同僚など、すべての人が相手と100%わかりあえるなんてことは無いと思っています。
だって別の生き物だから。
相手が見ている景色と自分が見ている景色は違う
車内のヒーター問題はというと、いつものごとくわたしが折れるしかありませんでした。
実情は、ヒーターをつけるとガソリンを〇〇Lくらい消費するだとか、ホッカイロを持ってこなかったお前が悪いだとか言われつつ、相手がキレないことを願いながらその場をやり過ごした感じです。
これはわたしの相手がモラハラ気質やDV気質だったこともあるので、詳細はまた別でご覧ください。
さて、なんやかんやで無事目的地に到着。
幸い登山口付近は雪も積もっておらず、なんとか標準装備で歩きはじめました。
脇道に咲いている小さい花や、生い茂る木々の中から聞こえる鳥の声。
ほぼ初めてに近い山登りでしたが、そんな自然と触れ合えたことは今となっても良い思い出です。
「ほら見て!あそこにかわいい鳥がいるよ!」「鳥なんて見ずに前向いて歩けよ」
「いや〜空気が澄んでて気持ちいいな〜」「いや、頂上に比べたらまだ全然だろ」
と、相変わらずわたしの意見に同意するなんてファインプレーは見せずに進む会話。通常運転です。
少し高度も上がってくると、目の先が開けて遠くの景色が見えはじめました。
今いる場所は山。相手のフィールドであるアウトドア環境で特に不満と思われることはないにも関わらず、なぜこんなにも彼は不機嫌なのか。
と、ここであることに気がつきました。
それは、わたしにとって山登りは娯楽という位置付けだったのですが、相手にとっては鍛錬、訓練といった位置付けであることに。
同じ環境で同じように歩いていても、わたしのように自然を愛でながら会話を楽しむことこそが山登りである、として話しながら歩みを進める者と、彼のように山登りは訓練だ、として自身を鍛えるために歩みを進める者、両者が同じ景色を見ているなんてことはあり得ないのです。
実際に脳科学の分野でも、脳のバイアスのかかり方の違いで、同じものを見ていても人によって感じ方や見え方が異なることがあるそうです。
相手と自分は違う人間であることを自覚する
かつて山登りをしていた頃のわたしも、なんでこんなにも相手と分かり合えないんだろうと嘆いていました。
どんなに言い方を変えてみても、どんなに伝え方を工夫してみても、相手にわかってもらえている、理解してもらえている気がしない。
でも、そんなことは到底不可能だったのです。
相手と自分はまったく違うものを見て、違う感じ方をし、違う考えを持っている。
それを事実として受け入れてからは、相手が自分の意見に賛同してくれなくても「あなたはそう思うんだね」と思えるようになりました。
山登り自体は無事頂上到達できたのかな?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろん無事では済みません。
しっかりと置き去りにされてなんとか帰還してきました。
いくら相手と自分は違う人間、だから理解し合えなくても大丈夫とは言っていても、山に置き去りにするような相手と一緒にいてはいけません。
そしてもちろん、世の中には相手のことを慮って、優しく理解しようと努力してくれる人はたくさんいることも忘れずに。
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