人生山あり谷あり。
いいときもあれば良くないときがある。それが人生。
頭では分かったつもりでいるものの、できることなら人生の中でいいときの割合が多くあってほしいと思うのが人間。
特に大きな不幸、不運に遭遇したあとこそ、その対価としての素晴らしいできごとがあってほしいと心から願ったりするが、現実はそううまくはいかない。
泣きっ面に蜂といわんばかりに、不幸や不運のあとに踏んだり蹴ったりのできごとに見舞われたりもするし、うまくいかなさすぎて心のすさみが止まらない。
ようやくブラック企業から抜け出したと思ったのにお金がなくて困る。
モラハラDVパートナーと別れたものの次の善き人が見つからない。
不慮の厄災に見舞われそれを乗り越え、悟りを開いた気持ちになったのも束の間、自分は何者でもないことに気がつき無力感にさいなまれる。
どれもわたし自身に起きた事実。
他所様にあーだこーだと能書を垂れたりしていながら、実際は夜な夜な自己嫌悪に陥ったり未来を悲観して答えのない不安に押しつぶされそうになったりもする。
その都度、ネガティブな感情に支配されそうになる自分の気持ちを落ち着かせては、なんとか今も生きている。
そして、結局いつも同じ結論に至ることに気がついた。
諸行無常。足るを知って今あることに感謝。
どんなに思考を巡らせたとしても、行き着く先はコレだ。
混沌とした気持ちがあちこち彷徨って、毎度どのようにしてこの結論に行きついているのか、ここで少し整理しておこうと思う。
【お金の焦り】節約と節約と満足
企業名を検索すると、そのあとに続くワードが「ブラック」とサジェスト表示されるような会社を退職し、収入が途絶え、前年給与に比例した住民税に驚きながら、自分の口座にあるお金を見て愕然としていた頃。
ある程度見込みを持ってフリーになったもののすぐに安定した収入を得ることもできず、さらにその前には離婚という大きな決断で、勉強代としての高額出費を余儀なくされていたこともあり、お金に対する焦りはなかなか消えなかった。
- あのとき慰謝料請求していれば…
- もう一年耐えて少しでも退職金をアップさせていれば…
などと思ったりしたけど、自分で決めた道だから仕方がない。
お金に対する不安を払拭するためにも、まず次のことを実践してみた。
【仕事】働き方を変えてみる
社畜を辞めた頃は会社という組織に属することが嫌だったし、転職してまた他の企業の社畜になることも断固拒否だったのだが、いざ辞めてみると、大企業という大きな看板があったからこそ仕事が得られていたことを痛感する。
退職前後も既に副業でチラホラと単発の小さな仕事はゲットできるも、フリーでの活動をしていくうえで自分には卓越した技術も才能もなさすぎることに気がつく。
それでも生活をしていくためにはお金を稼がなければならない。やはりこれまでと同じように、社員として会社に属さないと生きられないレールを歩むしかないのか。
と、他企業への転職活動も視野に入れたとき、ふとある記憶が蘇った。
「前の会社には、社員でもなくパートやアルバイトでもない人がいたような?」
「会社にいたり居なかったりしたし、仕事をこなしたらサッと帰っていた人たち」
「あれはどんな人たちだったんだろう?」
そう、彼らは業務委託のいわゆる個人で活動している外注さんだった。(ここでは当時の呼び方に合わせてさん付けとする)
当時は正社員至上主義の会社に属していたため、外注さんの立場はというと、やはり社員よりは目立たなかったと記憶している。
わたしは直接関わることは少なかったが、周りの社員たちは外注さんに対してなぜか優位に立つというか上から目線の姿勢が目立っていた。きっと正社員の方が立場が上だという謎の優越感があったにちがいない。(日系企業だけなのだろうか?)
でも、一歩会社という枠を外れてみるとどうだろうか。
自分の仕事をこなし、それが終わればミッション達成。分かりやすい。
ボーナスがない代わりに時間はある。報酬は減るかもしれないが、事業として経費が使える。
しかも会社組織の謎のルールに迎合する必要もなく、自由が確保されている。
いろいろと情報収集をするうちに、今までは見えてこなかった新しい働き方が見えてきた瞬間だった。
もしその働き方でうまくいかなかったとしても、パートでもアルバイトでも日雇いでも、なんでもやってみればいいじゃないか。
嫌なことは、納得できない会社のルールに縛られて働くこと
自分が絶対にやりたくないこと、譲れないことだけを最低限確保すれば、あとはどんな働き方でもいいのだ。
結局、わたしの働き方に対する固定概念が、お金を得ること=仕事に対しての焦りを生んでいた。
【節約】不要品を売り、お金を使わない
事実かどうかはさておき、安定しているといわれた一部上場企業を退職したのだから、今後もこれまでと同じ生活レベルでは残金も減る一方。
少し生活を見直そうと思い立ち、まずは不要な物たちを一気に売り払った。
元夫の趣味で集めた登山用具一式からはじまり、仕事道具として使っていたバッグや洋服なんかもほとんど手放すと、割と結構な額になったではないか。
なるほど、物を売れば現金がゲットできるのか。
当たり前のことだけど、これが幾分か気持ちを楽にしてくれた。最悪、あるものを手放していけば食い繋ぐことができるのだと。
そして、これまでなんの考えもなしにやっていた次のことたちもやめてみた。
- カフェに行くこと
- 洋服を買うこと
- 外食
会社の休憩と称してはカフェに入っていた(避難していた)あの頃、一杯400円のコーヒーだとして毎日の休憩で足を運んでいたから、毎月稼働日20日計算で400円×20日=8,000円/月の出費。
これはやめたというよりも、不要になった。
なにせ会社に出社しないのだから、休憩でカフェに行く必要もない。家でコーヒーを淹れて飲めばいいのだ。(しかも自分で淹れるコーヒーの方がおいしかったりする)
洋服も新しいものは買わなくなった。
不要品を売るタイミングでクローゼットを見返すと、ほとんど着ていない服たちのオンパレードだった。
さらに会社に出社しないので、仕事用の服なんかもいらない。擦り減ってはヒールを修理したり、毎日同じ靴を履くのはちょっと…と定期的に新しいパンプスを買ったりしていたけど、それも不要だ。
季節ごとに着る服というのは、実は大して多くないし、服というのは意外と丈夫なので、普通に着ている分には数年はヘタレない。
買い替えというのも実際にはそんなに発生しないのだ。
そして同じように、外食も不要になっていった。
毎日働き詰めの頃は家に帰ってきてご飯を作る気力がない日も多かったし、週末も休みだからゆっくりしたいと理由をつけては外食をしていたけれど、会社員を辞めて時間はあるので、もはや自炊が日常のルーティーンとなり、外食はちょっと特別な日のイベントに変化した。
これまでの固定概念を取り払い、どんどん手放していくことによって、いつしか今あるものだけで満足するようになったことで、お金に対する焦りも少なくなっていった。
手放すことが増えると不安になるかと思いきや、反比例するかのように焦りや不安は小さくなっていったのだ。
【独り身の焦り】恋人・夫婦という肩書きに執着しない
離婚のことをバツというあの慣習、そろそろやめにしませんか?(といってはみたものの、実際はそんなに気にしていない自分に気がついた)
世間から見たらバツイチと呼ばれる状態になった最初の頃は、やはり人並みに悩んだし、なんともいえない劣等感を感じたこともある。
周囲にはそんな劣等感を感じ取られたくなくて、いかにもわたし大丈夫です!と離婚を自虐ネタにしてみたりもしたけれど、ある程度時間が経つとやってくる焦り。それは、
「わたしはこのまま独りなのだろうか」
ということ。
しかも離婚歴のある自分だ。次の出会いなんて早々ないのかもしれない。
不思議なことに、壮絶な経緯で離婚を経験したにもかかわらず、人間というのはまた人生の伴侶を求める生き物だったりする。
そしてそんな状況で目につくのは、SNSなどで見かける「離婚したけど今は新しい人に出会ってハッピー」な種族たち。きっと無意識のうちにそんな事例を探し出しているのだと思う。
比べてもいいことなんて分かっているのに、離婚してもまたいい人が見つかっている人間がこんなにもいるんだから、わたしだってきっと大丈夫!と言い聞かせる。
でも、あるとき気がついたことがある。
パートナーがいたとしても、相手が亡くなったらひとり
そう、結局人が命尽きるときはひとりなのだ。パートナーがいたとしても、自分より先に相手が居なくなってしまう可能性はあるわけで、つまり彼氏彼女、夫婦といった肩書を持って仲良く一緒にいたとしても「ひとりになる」ことに対する不安は尽きない。
もちろん孤独は人の心を病ませてしまうこともあるから、積極的にひとりでいようとは思わない。
ただ、無理にパートナーをつくらなくてもいいのでは、という自分なりの落とし所を見つけたのだ。
重複するが、パートナーができたとしてもひとりになる可能性はゼロではないのだから。
【何者でもない焦り】情報をインプットしすぎない
前向きでちょっとがんばろうと思うとき、自分には何ができるかなと考える。
今の状態から少し変化を求めて、もっと仕事に繋がりそうなことをやろう、新しい分野にもチャレンジしてみようと、ポジティブに自分の未来を想像していく。
名の知れた人物を眺めては、自分もそんなひとりになれるかもしれないと夢を見る。
何者でもない自分がちっぽけに感じて、巷でちょっと有名なあの人みたいになりたいなんて考える。
ネット世界を歩き回り、自分にもできそうなことを見つけては、具現化するために情報を集めてさぁやってみようと行動を起こすものの、やっぱり途中でいろいろな考えがやってくる。
- それって本当に自分のやりたいこと?
- たくさんの仕事に繋がったところで嬉しいの?
- そもそも有名になって何がしたいの?
何者でもなさそうな自分への焦りというのは若い頃特有の悩みかと思っていたけれど、現実はそうではないらしい。ある程度歳を重ねても、何者でもない自分に焦りを感じることはある。
でも、そんな焦りをまったく感じない日々もあったりする。
熟考した結果、その焦りの感情は、いつもある行動のあとにやってくることに気がついた。
それは、他者から発信される情報を浴びすぎたとき=情報をインプットしすぎたとき、だ。
インスタグラムやTwitter・X、Youtube、何気なく見ているそれらの情報によって、知らず知らずのうちに焦燥感にかられているらしい。
昨今のSNSの普及により、どんな人でも知名度を獲得することができるようになってきた。バズと呼ばれる現象を生かし、爆発的に注目を浴びることも可能だ。
手軽に情報を発信し、それを目にする人にとってはその発信された情報だけでなく、どんな人が発信しているかというのもインプットされる。
注目を集めている人がすごい人に思えて、注目を得ていない自分がちっぽけに感じる。
さて、そんな焦燥感から逃れるにはどうしたらいいか。
実際にわたしがその焦りから抜け出すことができたのは、情報のインプットを減らしたからだと思う。
SNSから距離を取り、自分が穏やかに落ち着けることだけを目に入れる。
花鳥風月
花を見て、鳥を愛で、風を感じ、月を眺める。
情報という人間が発するものから少し離れて自然に接する時間を増やしてみる。そうすると、不思議なことにこれまでの焦燥感というのはスーッと心から抜けていく気がする。
スピリチュアルなことはあまり信じていないけれど、浄化されるという言葉はしっくりくるかもしれない。
あぁ、今このままの自分でいいんだ、と思うことができる。
結局、自分はすでに生まれ落ちたときから何者かではあるし、また世の中すべての人間が何者でもないのだ。
【変わることを知る】永遠はないのだから
焦りという感情を否定はしない。
でも、焦りの感情の中には希望や理想、思いどおりにいかないことへの心配や不安などが見え隠れしているはず。
それもきっと、なにごともずっと続くことはないのだと考えれば、少しは気楽にならないだろうか。
- 今の仕事がずっと続くかなんてわからない
- 100年後は自分もパートナーもこの世にいない
- 有名になっても注目はずっとは続かない
- 健康な体がずっとあるとは限らない
変わることが当たり前だからこそ、今あるものにも執着しすぎない。ただ、感謝する。
諸行無常の世の中で、変わらないものはないのだから、それならばいっそ今この瞬間にあるものだけを感じる。
そして、人間以外の自然に目を向けてみる。
わたしだってまだまだこの先も、夜な夜な焦りや不安に押しつぶされそうになるときはあるはず。
それでも、ぐるぐる考えてはまたこの答えに行き着くのだから、わたしの中での真理は今のところコレなのだと思う。
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