春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、、、
枕草子を初めて読んだ、いや、読まされたのはいつの頃だっただろうか。
たしかあれは小学校の高学年だったかもしれないし、もしかしたら中学生だったかもしれない。
国語、古典の授業は割と好きだったものの、ひとりずつイスから立ち上がって音読させられるのはあまり好きではなかった。多分今でも好きにはなれなさそう。
文学の素晴らしさは大人になってから気がつく人が多いのも、あの子ども時代の公開処刑音読がひとつの理由になっている気がする。
さて、春はあけぼのだ。
ハンガリー含む欧州の一部ではサマータイムとなり、なぜか時間が1時間ズレるという現象が発生する季節。
日が長くなるこの季節、わたしはなぜかムズムズする。
花粉症持ちではあるが、目や鼻がムズムズするとかそういう話ではない。心の奥というか、胸の内というか、体の芯の部分がムズムズモヤモヤするという感じ。
この感覚はいったい何なのか。
そしてこの感覚は、来年の春になれば無くなっているのだろうか。
夏休みの自由研究さながら、春の個人研究として、日が長くなり、太陽の位置が高くなりつつある空を見上げながら、研究のための記録用に、毎年この季節に思うことを書き留めておくとしよう。
新しいクラスでの「はじめまして」【新学期】
小学生の新学期というのは、ワクワクするものなのだろうか。
わたしはといえば、記憶の中の小学校生活において、ワクワクよりも不安と心配で心がいっぱいだった記憶しかない。
新1年生として入学した小学校を卒業していたら話は変わっていたかもしれないが、3つの小学校を経験したわたしにとって、新学期というのはいつも「はじめまして」をしなければならない緊張の時期だった。
入学し1年生〜2年生を最初の小学校、3年生〜5年生を次の小学校、そして6年生だけを最後の小学校で過ごした。
新しい学校への最初の登校日は他の生徒にとっても新学期。ただひとつ違うのは、わたしだけみんなの前で「はじめまして」の挨拶をさせられること。
他のみんなも自己紹介の時間はあるものの、クラス全員の前に立って、みんなの注目を一気に浴びながらの初めましての自己紹介は、やはりハードルが高い。
新学期、子どもたちにとって気になるのはクラス替え。
学校によってクラス替えがあるところもあれば、同じメンバーで進級するところもあるだろう。
転校生のわたしにとって、クラス替えがある学校であればまだラッキー、入学してから卒業までメンバーが変わらないところ、あるいは数年ごとにしかクラス替えのない学校というのは地獄だった。
小学生といっても侮ってはいけない。
昨今のキラキラメイクをしたり、SNSでアイドル化しているような小学生とはやや時代が異なり、スマホもSNSも無かった時代の小学生なので、もう少し田舎っぽさ、幼さの残る子どもが多かったものの、やはり小学生としてのルールは存在する。
いわゆるグループ分けだ。
特に女子のグループというのは手厳しい。これまで仲の良かったグループを抜けるなんてことも大変だし、さらに突然やってきたよそ者を仲間に入れるかどうかは、グループ内でも意見の分かれる一大事だ。
まるでアイドルグループへの加入試練さながら、いきなりやってきた転校生に対して、どんなグループでも加入時に明確な試練を用いることもある。
春は試練のとき【新メンバーグループ加入試験】
幸い3年生で転校したときは年齢も低かったからか、地域柄か、転校先での明確なグループというものは存在せず、割とみんながみんな仲がいいというラッキーな状態だった。
さらにわたしのあとにすぐ、もう一人の転校生がやってきたことにより、わたしの転校生キャラはすぐに彼女に移行され、わたしは割と早めに既存メンバーに変わることができたのだ。
そこを卒業し、仲の良い友だちと一緒に近くの中学校に行けると思っていた矢先、父の転勤が決まった。
少し大きな都市の学校らしい。
子どもながらに「なぜ残りの一年だけ別の学校?」「キリ良く中学から新しいところでいいのでは?」と疑問に思ったものの、親としては「中学から新しいところへ行くより小学校で一年でも過ごすことができれば、友だちもできて中学生活も過ごしやすくなるのでは」という配慮があったらしい。
これが良かったのか悪かったのかは、今でも答えは出ていない。
さて、5年生を終え、仕方なく6年生だけ新しい小学校へ転校をせざる終えなかったあのとき、最後の小学校ではもっとも厳しい試練が待ち受けていた。
まず通例のはじめましての挨拶。
6年生の新学期、新しい土地がどんな場所かもよく分かっていないまま最寄りの小学校に向かい「ここがあなたのクラスよ」と言われた教室のドアをノックする。
一度経験している身からすれば緊張はすれど、まぁここを抜ければあとは大丈夫だろうというちょっとした慣れはあった。
ただ、最後の小学校では何かが違った。
教室のドアを開けたとき、2番目の学校ではみんながニコニコしながら興味深そうにわたしの顔をのぞいていた、あの好意的な空気がないことを察した。
まさによそ者への視線。隣の子とコソコソ話し、あいつは誰だ?と既に品評会が始まっている様子。
特にひねりのない普通の挨拶を終え、みんなの視線に晒されながら指定された席につき、いざ試練は次の休み時間から開始だ。
女子グループ加入の厳しさ【小学生の恋事情】
先に断っておくが、これはもはや数十年前の小学生の話である。
今とは異なる時代背景であることを留意し、読み進めていただきたい。
さて、話は休み時間だ。
最初にやってくるのがそのクラスの中心的存在である女子グループ。これは前の学校に転校したときも同じだったので予想どおり。
「どこからきたの?」
「なんで引っ越してきたの?」
「どこに住んでるの?」
など、ありきたりな質疑応答をすすめたのち、最初の関門にぶつかった。
「彼氏はいるの?」
まさかの質問だった。
前の学校は海寄りの田舎町で色恋なんて会話は小学生にはなく、まだ男子女子入り乱れて田んぼ周りを駆け回っていたくらいだったので、この質問には正直面食らった。すごい、、これが都会の小学生女子なのか。。
(え、都会ではもう彼氏がいるのが普通なの!?)
(好きな人がいなかったらおかしいの!?)
(他の子はみんな彼氏がいたりするもんなの!?!?)
どんな回答が正解かもわからず、恐る恐る「彼氏はいないよ」と答えた。
あえて「彼氏は」という含みを持たせた言い方で、好きな人がいないわけでもないというちょっとした背伸び回答。我ながらグッジョブと思った。
すると、思惑に反してなぜか最初に寄ってきた目立つであろう女子グループの数人が目配せをし合い、わたしの席から離れていったのだ。
少し戸惑ったのち、しまったと思った。
彼氏がいるということが、彼女たちのグループ加入条件だったのだ。既に加入一次試験は終了。彼氏がいないという事実は、クラスの中心女子グループ加入への道を閉ざされたのと同じことだった。
知らなかった。そんな加入条件があるなんて。
その後どういった経緯や流れがあったかは記憶にないが、結局学級院長をやっているという女の子が気にかけてくれ、彼女のグループに属することになった。
今となってはあの小学校の中心的女子グループメンバーも、学級委員長のグループメンバーも、誰一人として繋がっている子はいない。
箱庭の中の自分【井の中の蛙大海を知らず】
以降も中学校、高校、大学へと進むのだが、そのどの場面でも、ひとりでいることは少なかった。どこかのグループに所属し、誰かと行動を共にすることで安心感を得ていたような気がする。
それと同時に、どこかで窮屈だと感じてもいた。
当時はひとりで行動する勇気もないくせに、誰かといつも一緒にいることも面倒だった。そんなややこしい窮屈な心の環境から本当の意味で抜け出せたと感じたのはいつだろうか。
それは今かもしれない。
学生の頃もクラスの〇〇好きメンバーだったり部活動の仲間だったりどこかしらのグループに属していたし、社会人になっても会社という組織の一員だった。
大学のとき、ある授業で心理学の箱庭実験を見たことがある。
箱庭の中にどんな世界を作り出すかによって、その人の思っていることや心の奥にあるものが映し出されるという心理療法のひとつ。
それを見たとき、ふとある感情が心の中に湧いてきたことを覚えている。
あの小さな教室で、クラスみんなの前ではじめましての挨拶をしたあのときのこと。
誰かと一緒にいないと不安でどうしていいかわからなかったあのときのこと。
どんなときも、教室や学校、会社という箱の中では、
そこに見合った自分を演じてきた
のではないかという感情。
新しい学校で好かれるにはどうしたらいいか、友だちに嫌われないためにはどうしたらいいか、会社でうまくやっていくにはどうしたらいいか。
特に春という新しい季節、新しい環境への移り変わりの時期は、状況によってその関係性もリセットされ、またイチから自分の存在を作り上げていかなければならないときがある。
春が来るとムズムズするのは、そんな箱庭の中にいた自分を思い出すからなのかもしれない。
そして、その箱庭の中だけが自分の人生だと思い込んでいたからかもしれないと気がついた。
人は一人では生きられないけどひとりということ
どこかのグループ、どこかの組織に属している方が安心だという人は多いかもしれない。
ちょっと前のわたしのように、そこに安心感を抱きながらも同じくらい不安やモヤモヤを抱えているという悩ましい人もいるはずだ。
春に感じるわたしの心のムズムズは、最近では少し落ち着いてきた。
春の風を頬に受け、高くなりつつある青い空を見上げても心がザワザワすることは少ない。
それはきっと、どこに属していないくても大丈夫ということに気がついたからだと思う。
たとえたくさんの人に囲まれて常に誰かとともに生きてきた人だって、命尽きるときはひとり。
同じ状況で同じようにせーので命を絶ったとしても、人間の臓器、細胞は人によってまったく同じということはあり得ないので、命尽きる瞬間は絶対的に他の人とズレが生じる。
ということは、やはり人はひとりなのだと思う。
どうせ最期はひとりなのだから、今ひとりでも何にも問題はないのだ。
どこかに属することで苦しいならそこから出たらいいし、一緒にいて居心地が悪いと感じるのなら、少し距離を取ったらいい。
箱庭のようなグループ、学校、会社という組織にしがみついてまで目指す自己実現なんてものは、そんなに大したことではないと思っている。そもそも自己の実現ってなんだろうか。
既に自分はここにあるから、自分は存在している。
それだけで十分じゃないのか。
と、数十年も前の小学生の頃から哲学に至るまで思いふけてしまうのは、やはり春だからだろうか。
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